しべりこぶた

おしゃべりこぶたのしべの日記

究極的にセックスが語れるかという問い

SNSの中で自分をどう表示していくか、というのは結構厄介で、私はとかく、ツイッターフェイスブック、インスタグラム、どれでも「彼氏がいる」というインフォメーションを載せたことがない。

 

恋愛事情を載せるか、載せないか、語るか、語らないかはものすごく個人的なことで、顔を載せるか載せないか、というくらい人によってその抵抗感や意識が分かれるものだと思う。

 

これは匂わせとかそういうことを批判するつもりのものでも、セックスを赤裸々に語る人をドブに落ちて死ねと言っているものでも(わたしはあのツイートに対しては全面反対の姿勢をとっています)ない。ただ、つぶやける人とつぶやけない人、載せる人と載せない人の間にあるなにかが知りたい。

 

失恋してものすごく落ち込んだとき、彼氏が欲しいというわけではないけどマッチングアプリなんか開いていろいろ遊んでいるとき、彼氏ができて猛烈に幸せなとき、恋愛の中にも喜怒哀楽はあれど、そういう土俵にいる自分を開示することへの気恥ずかしさ、ためらい、落ち着かなさはなんなのか。

 

やっぱり陰キャだから、そういうの大人になったからって語るのってどうなの?という自戒と、中高生のときに見ていたあのポエム文化、赤裸々できらきらとしたラブ・ブームに自己を投じていなかったというちょっと気味の良い自虐が、ナード的な誇りに変わっているのか。

 

そうだとしたらかなり気持ち悪いけど、ある程度おとなとしてツイッターを使っているというのに、そこだけこどもだったときのあのじとっとしたヒエラルキーへの忌避を思い出してしまうようななにか、が恋愛というものには含まれているのかもしれない。恋愛というものはそれほどまでに、人間を持ち上げたり崩したり、その気にさせたりやる気を奪ったりするものだから、その悪魔的な魅力を簡単に語るということがまずもって、自分の中では一種チャレンジングなのかもしれない。

 

こういう「語れなさ」は、自己分析の要であるから、わたしはこのことについて決着をつけたい。嬉しいことや悲しいことがあって、それをシェアしたいという、一般的SNS消費者の思考を持ち合わせながら、そこにただ一人の「特別に仲の良い異性(わたしの場合は)」が絡んできただけで、口をつぐみたくなる、つぐまなければならないと思ってしまうようになる、これはどういったプロセスなんだろうか?

 

実験的に、「彼氏」というワードを滑り込ませてなんてことのないツイートを書いたことはあるが、やっぱり「ツイート」できない。下書きばかりがたまるのだ。わたしは、彼氏のことが大好きなのに、その存在すらつぶやけない!大好きだからつぶやけない?ポルノグラフィティ的感覚?でも友達の楽しい思い出はよく呟いているじゃないか。

 

おそらく、他者から見た自分と、自分がそう思いたい自分とのはざまに何かしらのギャップがあり、そのギャップにもがいているのが今のわたしなのだろう、という推測もできなくはない。なにを恋愛なんてしてるんですか自分、みたいな、そういうときって、あるじゃん!

 

この問題はまあまあ由々しいので、また考えます。